研究テーマ

原研哉氏トークイベント採録(4/5)

2010年2月3日

無印良品のデザインは、毎日繰り返される禅寺の掃除のようなもの。目を離さず、最小限をさわっていくうちに、でき上がっていくんです。

このレポートは、2009年9月24日に池袋西武店で行われたトークイベントを採録しています。

全ての解釈を受け止める広告

これは2003年に東京ADC賞のグランプリをいただいた、無印良品のポスターです。

じつは、コミュニケーションにも同じことが言える。つまり、無印良品はこんなことを考えていますというメッセージを出すのではなくて、何も言わずにお客さんとアイコンタクトをして、目を合わせてうなずくだけ。そういう手法が無印良品のアドバタイジングには有効だと思います。
企業のコミュニケーションのとり方にも、いろいろあります。この製品はどこが優れているかを、微に入り細にわたって説明しなくちゃならないという局面もありますけれど、広告の役割の基本は、まずアイコンタクト。お客さんと目を合わせていくという、そういうことだと思います。
お客さんによって無印良品の解釈は実にさまざまです。MUJIのことをエコだと思ってる人もいるし、日本の禅の思想だと思ってる人もいる。値段の安いブランドだと思っている人もいるし、デザインを拒否してると思ってる人もいる。あるいは、デザインを感じさせないから気楽でいいやと思ってる人もいる。いろいろいるわけです。
そういうところにもっていって、広告で「エコです」なんていうと、何を気取ってるんだとしかられるかもしれない。だから、何も言わないで全ての解釈を全部受けとめて、それに応えていくということを考えるのが、無印良品の広告です。
お客さんとのコミュニケーションは、そこが基本だと思います。合理性とかシンプルとかローコストとか、省資源とかナチュラルとか、無印良品に関しては、いろいろなことを言ってくれる人がいらっしゃいますが、その全てを受けとめていく。
もちろん、ちょっとくらいは、言うんですよ(笑)。雑誌広告など、販売促進的な広告では勿論しゃべりますけど、それも基本姿勢としては、最低限の説明のみにする。 「しぜんとこうなりました」なんていうのも、限りなく何も言わないコピーのひとつだと思います。

「やさしくしよう」なんていうのも同じですね。

なぜ自然とこうなったんですか、とか、何にやさしくするんですか、そういうことはあまり説明しない。いろいろな解釈があるでしょうけど、そこはエンプティにしておくんです。多義性があるというか、キャパシティが広いというか、さまざまな解釈が可能な言葉をコピーにしていくということです。
ファッションでも、同様です。いかにもというモデルじゃなくて、何かスーッとしていて、いるのかいないのかわからないような、だけどすごく清潔できれいだなというようなモデルを起用しています。そういう人が無印良品のモデルとしてはふさわしいのかなと思います。メッセージのかたまりのように、挑んでいくような、現代的でアグレッシブで、というようなモデルじゃなくて。

何気なくできたようなものほど緻密

僕は立場上、いろいろなアートディレクションをしなくちゃいけないんですが、40品目から始まった無印良品が、今は7000品目以上になっています。ラベルとかタグシールとか、そういうものでアイデンティティを制御していくわけですけれども、これは案外、緻密な仕事なんです。束にするとか、貼るとか、いろいろな方法があるんですが、安直にやると、すぐバラバラになってしまう。安くてチープで、さりげなくて気持ちがいい、とやってきたように思われるんですが、何気なく簡単にできたようなものほど、精密に管理できていないと混乱するし、崩れてしまいやすい。
だから、いつも目を離さないようにしています。読みやすさや識別のしやすさは勿論、きちんとした文字の配列や、和文と数字の組み合わせとか、そういう細かいところも、仕組みが大きいほど注意しなくてはいけない。システムをきちんとつくってしまえば、あとは流れていくわけですからコストはかからない。基本ルールの策定と運用を丁寧にやっているわけです。

このラベルは、最近手直しをしたものです。無印良品には必ず「理由(わけ)」を書く部分が入っているんですが、それをトップにもっていきたいという金井社長の強い要望がありました。「無印良品」のロゴは少し控えめにして、全体を見直したものです。

お見せしているのは、ごく一部、氷山の一角です。タグ・ラベルからカップ麺のふたや飲料のボトルまで、膨大な量になりますから、ルールは憲法みたいなものです。そこがきちんとできあがってくると、さりげなく普通でも魅力的に見えるはずです。

最近の無印良品のデザインに関しては、掃除みたいなものだという思いがますます強くなっています。びっくりするような刺激で驚かしてやろうなんて思わない。禅寺ってきれいに見えますね。でも、禅寺がきれいに見えるのは、掃除が行き届いているからです。

もちろん、石庭の造形もきれいですよ。枯山水はとても人工的なものです。こんなきれいなものが、こんなふうに自然に存在するわけがない。周囲の木は全部自然の木だから、風が吹けばすぐ葉が落ちるはずですね。しかし枯山水には葉が落ちていなくて、熊手のようなものできれいに線までつけられている。つまり、ものすごく人工的なオペレーションが行われているはずです。
しかしながら、石は、自然にあるように置かれて、そこに苔が生えている。苔っていうのは、待たなきゃならない。5年、10年、15年と待つ、それも、必要な苔とそうじゃない苔の繁茂を分別しながら待つという、意志的な辛抱強さがないと、こういう苔の生えた庭はできない。人工と自然が絶妙に調和しているわけです。

枯山水に向き合う「方丈」という空間は、お坊さんがお経をあげたりお勤めをするところです。障子も無数にあるし襖もある。ほこりがたまらないように、障子にはたきをかけ、拭き掃除をして、きれいにしています。それを毎日毎日、数百年もやっているわけです。
掃除をするというのは、ある空間を人工的に保つということです。でもあまり人工的にやりすぎると味わいがなくなるので、そこに自然の干渉を許す。庭には多少の落葉、苔の繁殖を許そうということで、自然と人工の波打ち際のようなものができてくる。これが日本の庭の本質です。要するに庭は、掃除でできていくのです。
ところが庭を見た人は掃除ができているから美しいということに気がつかなくて、築庭の技術とか建築の造形ばかり注目する。もちろんそれもありますが、それは半分でしかない。でも、それが全てだと思ってしまうんですね。自然と人工との波打ち際が見事に制御されているというところにバランスが生まれている。もしそれが3日間でも掃除されなかったら、全く違う様相になるでしょう。禅寺なんて、美しいだけに、ちょっと放置しておいたら荒れ放題になってしまうでしょう。
デザインも同じです。冗長なことはやめて、最小限をさわっていくうちに、出来上がっていくんです。