MUJI×UR 団地リノベーションプロジェクト リレートーク vol.1
団地の再生の可能性を考える ~建築、コミュニティ、福祉サービスのかたち~

※このレポートは、2014年4月22日に日本デザインセンターPOLYLOGUEで行われた、パネルディスカッション式のトークイベントを採録しています。

大月
これは今は亡き、同潤会代官山アパートです。今は代官山アドレスになっていますね。昭和30年のところの、線で結んである住戸は、親戚関係があることを示しています。
右側の3階建ての住棟は、もともと戦前は男子独身寮だったのですが、よく見ると住戸が連なって使用されていてる。つまり、戦前は賃貸の独身室としていた住戸を、戦後の払い下げののち、数軒同時に使用することによって、家族として住むという方が多かったのです。
ここを訪れてみても、どことどこが親戚かというのは、一見しただけでは誰も知らない。しかし、こうして、経年的な町内会名簿をたどったり、複数の人にインタビューしたりすると、ここの鈴木さんとここの田中さんは、実は親子なんだ、なんてことがわかる。逆に、こっちの田中さんと、こっちの田中さんは、親戚では無かったということがわかる。我々の目に見えない、ある種の多様性というものが、時間の経過とともに、この居住環境の中に獲得され、蓄積されて行くのです。そして、その目には見えない複雑な関係性の蓄積が、例えば、あるおばあちゃんが死にそうになったら、その団地の中に親戚がいて、弱ったおばあちゃんを助けてくれるというような、目に見えないセイフティネットの役割を果たすこともあるし、こうして時間経過とともに団地自体が、ある意味での強さを獲得していくという側面があると思うのです。

最近、レリジエンスという言葉が流行っています。強靭性などと訳されますが、時間が経つにつれて、人間の関係とか人間と空間の関係が多様になっていくと、ある種の強さというのがでてくる。そのことを我々はわけがわからず、なんとなくコミュニティという、単純だけどよく考えるとわけのわからない言葉に託して満足しているような気がするんです。
大月
次に、有名な同潤会青山アパートなんですけれども、あんまり増築はしていません。逆に、1つの住宅を2つの家族で使っていたという事例です。現代のシェアハウスのような住み方です。なぜシェアハウスが出てきたのかというと、戦後の住宅難の中で、青山アパートは、もともと都の職員の社宅として使われたんですね。そのときに、全く他人なんだけど、住宅難だからといって、もともと一つの住戸であったものを、部屋を仕切って、2家族で使っていたんです。そんな住まい方を昭和20年代から昭和50年代までやっておられたという事例もあります。

あと、ひとつのアパートにおける居住者の移動をずっと長期に見ていくと、みんな結構移動するということがわかります。これは、同潤会江戸川アパートの1階から6階まで、誰がどこからどこへ移動したのかというのを、過去の名簿などを全部調べ上げて図化したものです。
大月
これを調べていくと、あることがわかりました。1階から4階までの家族向けの住戸では、ほぼ全部のベクトルが下から上に行っているわけですね。さらに、独身部である5階6階部分も、ある一定の法則で人が動いていることがわかります。
その法則というのは、「環境の悪いところから、環境の良いところに引っ越している」ということなんです。世の中には、定住と移住という対語がありますが、この江戸川アパートの移住は、一般に世の中で考えられている移住の概念とは何となく違う。移住には、ある町から、少なくとも一駅以上くらいは離れている別の町へ引っ越すというようなニュアンスがありますが、この江戸川アパートで起こっている現象も、移住といえば移住です。居を移すのですから。しかし、こんなに近くに移住する人がこんなに多くいるのだということが、私にとっては発見でした。そこで私は、近所でちょこちょこ居を移すことを、“緩い定住”と呼んで、固い定住と分けています。固い定住というのは、何○何号室にずっと住むというようなものです。

今まで紹介したのはコンクリート造のものばかりでしたが、日本でおそらく唯一現存する棟割長屋という、木造の集合住宅も調べてみました。
大月
棟割長屋とは、落語によく登場する最小限の庶民の住宅です。普通の長屋とは異なり、建物のてっぺんの棟木の下に壁を設けて、住戸の裏の壁の裏にもう一戸別の住戸があるようにしたものです。イギリスなんかではback to backと言うのです。

私が調べた棟割り長屋は、関東大震災直後の応急住宅として横浜に建てられたものが長く住まわれ、私たちが調べた小手では、おそらく日本で唯一人が住んでいた棟割長屋でした。この太い線で結んであるところは、住戸間の壁を撤去して隣と部屋を統合したところですが、3つの部屋を統合したり、さらに4つの部屋を統合して住んでいる例もあります。だから、離れて住むのではなく、隣をどんどん買い増して、壁をつぶしていく。そういう住まい方もありうるのだというわけです。

集合住宅ばかりではなくて、実は戸建て団地も調べていて、面白い事例があるので紹介します。
大月
これは茨城県のある町の団地なのですが、だいたい団地の半分くらいの敷地に家が建っていないんです。不動産的にみると失敗という感じなんです。売れ残っちゃってしょうがないと。
この団地に昭和40年代後半に、ある家族が引っ越してきたんです。空き地ばっかりということは、ユーザーにとってみれば土地の値段が安いわけで、ちょっとした車を買う値段とあまり変わらないのなら、隣の敷地を買ったらどうかということで、隣の敷地を買って、奥さんが店を開いたのです。
この奥さんが鋭かったのは、この団地には住宅しか建っていないということに気づいていたことでした。いつもは近所のおばちゃんたちはお店がないとぼやいているから、ここで商売をやったら儲かるんじゃないかということで、商店を建てたら本当に儲かっちゃって、そのお金で、隣の空き地を買って、そこで家庭菜園をして、家庭菜園でまたお金が貯まっちゃったから、子どもを鍼灸学校に通わせることができて、子どもが鍼灸学校を卒業して鍼灸院を開きたくなったので親に相談したら、お向かいの土地が空いているから、あそこで開きなさいよということで、お向かいに子どもの自宅兼鍼灸院ができて、鍼灸院にお客さんがつくようになって、商店にもお客さんがつくようになって、車を置くところがないわねということになって、角の空いている土地を買って、今度は駐車場にしていったんです。この流れ、なんだかわらしべ長者みたいですごいですよね。

「日本には現在空き家がたくさんあります!」と毎日悲壮感漂わせてニュースが発信されていますが、見方を変えれば、こんなに楽しく住めるチャンスが我々の目の前に、リーズナブルな形で転がっているわけですね。そういうことを考えるのが団地再生の秘訣なんだと思っています。

今まで話したのは個人が頑張って「住みこなす」という形でしたが、次に、住民が一丸となって、町を住みこなす例をご紹介しましょう。かつて、荒川区の南千住駅の近くに“汐入”と呼ばれていた、いかにも下町風の路地で有名な町がありました。今は東京都による防災再開発で、超高層マンションがいっぱい建っているところです。
20数年前に、この路地で有名な町がなくなるということで、大学の先生や先輩たちと一緒に記録保存調査をしていました。そのとき、どこか面白い路地はないか調べていく中で、こんなものを発見したんです。
大月
この、植木鉢がところ狭しと置かれた場所は、近所の方が「お花畑」と呼んでいたところで、よく見ると、四方がフェンスに囲まれていて、中に入れないようになっているんですね。真ん中に立て看板があって“ここは再開発用地につき、立ち入りを禁ず!”と書いてあるんですが、どう見ても、人がいっぱい入っているようにしか見えない。
不思議に思って、周辺の住人に話を聞いて、ようやくからくりがわかったんです。このお花畑に面する路地沿いに住んでいた人びとは、みんな仲良しなんです。そして、お花畑の隣に住んでいるおじさんとおばさんが、地域の、いわば顔役なんですね。ここを再開発するために東京都がこのお花畑に建っていた住宅を買収して、更地にして、フェンスを張って、例の看板を設置したんだけど、このおじさんが、一計を案じたわけです。
彼が東京都の再開発事務所に行って、「これから夏になると草は生えるし、蚊はわくし、困るから、俺らがあんたたちの代わりに草刈りをしてあげるから、カギを貸しなさい」と言ったんですね。で、借りてきた鍵で、南京錠を開けて、別の錠に付け替えて、その合鍵を路地のみんなに配って、みんなで耕してできたのが、このお花畑です。
つまり、みなさんの「何かやりたいな」という思いが少しづつあって、こんなすてきな空間が出現したというわけです。それまでただ混ざっていただけの化学物質が、触媒などのある条件をきっかけに、さっと科学反応を起こすような、そんな環境の変化と捉えていいかもしれません。

しかし、これが持続する訳ではないということを発見したのは、町全体が再開発され、皆さんが新しい住まいに移られてから、この路地に住んでいたおじさん、おばさんたちを尋ねていったときでした。「再開発になって、バラバラなところに住むようになったから、もうあんまり顔を合わせていないよ」と。
この種の再開発は、それぞれの家族の資産状況に応じて、ある人は都営住宅、ある人は都の公社、ある人は再開発用の分譲マンションという風に、みんなそれぞれ別れて行ってしまったわけです。ちょっと悲しい話かもしれないけれど、居住者同士の関係というのものはある種刹那的なものであって、例えば、いま若者がシェアハウスをみんなで仲良くやっているからといって、それがそのまま永続するとは限らない。もし、彼らがそのままじいさんばあさんになっても仲良しのままずーっと、お互いに見守っていけば、「日本には福祉は要らないよね」なんてことには、なかなかならないわけです。

このように、近所付き合いそのものの質がどんどん変わっていって、同時にその人間関係を取り巻く空間も変わっていくというのが、多分本当の姿、コミュニティということなんじゃないかと。そのときに、変わっていくのは必然だとしても、その土地とか場所に根ざしている記憶みたいなのものがあるからこそ、我々は「緩い定住」を志したりするわけで、そうすると、記憶というものがどう人びとを引きつけるのかということを、研究しなくちゃ行けなくなったわけです。こうした意味では、地域にまつわる記憶というのは、ある種の地域資源ともいえるでしょう。