


MUJI×UR 団地リノベーションプロジェクト リレートーク vol.1
団地の再生の可能性を考える ~建築、コミュニティ、福祉サービスのかたち~
※このレポートは、2014年4月22日に日本デザインセンターPOLYLOGUEで行われた、パネルディスカッション式のトークイベントを採録しています。
- 土谷
- ありがとうございました。面白かったですね。初めの“住みこなす”っていう話しがとても興味深かったです。もう一人のスピーカーである栗原さんからコメントいただきたいのですが、いまのお話を聞いていかがでしたか。
- 栗原
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UR賃貸住宅でこのような住みこなしをされたら、大変なことになっていると思います。
私はこの3月まで団地再生をやっていて、MUJI×UR団地リノベーションプロジェクトにも関わっていました。また、個人的には街歩きを20数年しているんですけれど、街歩きを始めた頃は、多摩ニュータウンとか、大川端リバーシティとか、当時話題になっていた開発ものを見ていたんです。その後、いろいろな街を歩くうちに、どう見ても、計画した街より、自由ヶ丘とか下北沢の方が面白いと感じていました。私自身は計画的な街づくりを仕事でやっていますけれど、計画的な街は、自然発生的な街には勝てない。何が違うのかというと、今日先生がおっしゃっている、“住みこなし”ができていないんです。
計画的な街は、計画してつくったらそれで終わりで、そこからの変化を許さない仕組みになっている。それから、ニュータウン等は一気にできているものですから、できた瞬間の形はあるんだけれど、それ以前の記憶がなくなっている。そういったところで、奥の深さがないんじゃないかと感じています。
自然発生的な街というのは、誰かが意図しているわけではないんですけれど、環境や何らか制約、道路の幅や斜線の規制だったりするわけですが、いろんな要因がある中で、それぞれの人達がその時その時最大限の努力をした結果として、その街で一番いい状態ができている。そういう街は結構面白い。そういう意味で、計画の限界のようなものはすごく感じています。計画をしつつも、住む人が関わりながら変えていける部分を組み込む仕組みがあると、本当はいいんじゃないか。ただ、今はまだそういう状況にはなっていないと思っています。 - 土谷
- 建築計画を研究している大月先生の立場としておうかがいしたいのですが、計画を超えるような、ある意味混沌を計画するような計画っていうのがあるのでしょうか。それともなにかしらの計画をしても、住みこなす中で、人間はもっと強い力でその計画した物を超えていくのでしょうか。
- 大月
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私も建築計画の学者なんですが、人によっては、ずいぶん「計画」という言葉に対するイメージが違いまして、要は1910年から30年にかけて、世界的に流行った社会主義、共産主義の言葉なんです、計画というのは。日本では、戦時中に大々的に軍事目的で採り入れられていたり。
例えば住宅政策で、5ヶ年計画で30万戸つくりましょうという話が出てくるのは戦時中の話。非常に、全体主義的言葉なんです。つい最近まで、その計画という言葉がどう使われていたのかというと、日本は、1970年代ぐらいまでずっと、戦災復興に起因した住宅不足に悩んでいたんです。ようやく70年代に入って住宅不足が解消して、バブルが始まる80年代半ば過ぎぐらいまでは、今度は数は足りているけど、質が悪いので、よい質ものものを、これまた量的に作らなきゃというモードになっていました。戦争で420万戸の家が焼けちゃってなくなったのと、戦後のベビーブームの人達は非常に人口が多いので、そういう人たちが大人になっていくのにどんどんハウジングが追っかけで作らなければいけないというので、多分80年代の半ばぐらいまでは戦後だったんだと思います。
つまり、復興をやっていたんだと思うんです。復興というのは一種の非常事態なわけで、戦時中の体制、すなわち戦時計画主義のような全体主義が引き続き採用されたわけです。計画主義の中では、少数のテクノクラート(技術官僚)が、「君らの国民の将来を計り画して(すなわち、計画して)ちゃんと文句が出ないように再配分してあげるから、文句言うな!」というような態度のことを言うと思うんですが、そうした上から目線の態度が、計画という言葉に染み付いてきたわけです。その体制の中で、どういう間取りにしたらいいかとか、どういうレイアウトにしたらいいかとか。どういう資源配分をしたらいいかということを研究したり、出して行ったりする。非常に全体主義的なモードで紡ぎあげられてきたのが計画という概念だと思っています。
しかし、都市計画でも建築計画でも、バブルのころになると、既に戦後復興モードはどこを見ても終わっているわけで、そうした時代の変化の中で国鉄も電電公社も解体されてきたわけですが、これからは民間ベースの自由競争社会の中でものづくりをしようという風に変わっていきました。さらに、その時に住民参加だとか、コーポラティブだとかが流行って、個別の幸せを個別に解決する技術が目指されるようになってきたのだと思います。 - 土谷
- ではいま計画をするとしたら、つまり、いままでの計画という枠組みではなくて、未来の、「住みこなすための計画」というものはあるんでしょうか?
- 大月
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昔の計画は、住民が住み始めてからずっとそのまま、空間と生活の関係が固定的に持続することを前提に計画しているつもりだったのだと思います。
ところが、今の計画は、たとえば植物の種を植えるときにマス目をつくってあげるような。ここにどんなふうに、どれくらい耕していけば、根っこが生えるかとか、どんな肥料をやったら育ちが良くなるかなあとか、そういうことを一生懸命考えるのが肝心かと。育つのは植物だから、植物たちの育ち具合に合わせて、たまに剪定したり、接ぎ木したり、植木に植え替えたり、雑草を取ってみたりと。そういうことをやることによって、どれだけ多様性をもった植物が繁茂するかということを考えるのが、いまの計画なのかなと。そうした意味では、ある種の農学や、生態学、場合によっては医学や疫学に近い分野なのかもしれません。 - 土谷
- そのあたりどうですか、栗原さん。その多様性を受け入れる。また、多様性を触発するような、そういう計画を考える事はありますか?
- 栗原
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これから、そういう動きがきっと出てくるだろうと思っています。なぜかというと、人口は減っていくので。さっきの戸建て団地の話じゃないですけど、あそこで家を買った人が隣にお店を作るみたいな、ああいうのがこれからどんどん出てくる。
郊外の住宅地だったら、人口が減れば当然、空き地がどんどん増えてくる。空き地とか空き家という新たな資源がどんどんできるんです。それをうまく使えれば地域が豊かになります。
URの団地も、住宅じゃなくてほかの用途に使えたらもっと面白いんじゃないかという話が、いずれは出てくるとのだと思います。
ただ、こういうのは無秩序になってしまっては困るので、そういうことを緩やかにコントロールしていく計画論というのが、きっとあるんだろうと思います。 - 土谷
- それは建築を管理する制度みたいなものですかね。例えば、URの仕事で現場の取材に行くと、家の前あたりの共有の庭とかが、結構畑になっていますよね。その管理の仕方も、「新しくみんなで管理しよう」と。しかしきちっとしているところもあるけど、中には、かなり勝手に庭を浸食しながら自分の場所として使っている人もいますよね。
- 大月
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かつては、公団の団地の住棟間は、きれいに芝が刈られていました。きれいだけれど誰も遊んでいないというのが公団の団地で、逆に、都営住宅の団地は一見ちょっと雑な感じなんだけど、草花やトマトやきゅうりが植わっていて、住民が耕している。
何が違うのかというと、公団の場合は、特定の会社が住棟間の維持管理を一括して請け負っていたのに対して、都営住宅は基本的に、自治体に管理が委託されていて、昔は電球の取り換えも自治会でやっていた。ついでに、掃除当番も自分たちで決めていた。庭を掃くときも、自分たちで決める。庭を掃くときも、草刈りをしなかっただけだから、柿の木が生えたり、みかんなど、実のなる木がいっぱい生えていたりする結果になる。都営住宅は。ある種の規制緩和というか、住民が耕せる余地をちょっとつくっていました。
完全に管理側が管理しきるのではなく、また、完全に住民に任せるのでもない、ベストな最適感の管理の仕方があるような気がします。一生懸命そこの接点を見つけるというのが、これからの管理者の姿かなと思っています。 - 土谷
- なるほど。単に未来を見せつけるのではなく、植物が育つように見守りながら、このへんでいま、緩めたらみたいな。そういうふうに、寄り添っていくんですかね。
- 大月
- 庭師のようなものです。われわれ建築屋さんは、建てた時が一番いいんだみたいな写真だけで、環境を評価しようとしすぎます。庭師の方が素晴らしいのは15年くらい先を見ているんですね。15年後は、ここはこうなるから、ここには植えちゃダメなんだみたいなことをおっしゃるんですね。建築屋さんは、そんなことはあまり言わない。
- 土谷
- 変更を前提とする計画というのは、本当につくれるんでしょうか。いま見ると、確かに都営住宅は楽しそうだけど、ちょっときたないというようにも思います。しかしそう思う自分に対して、都市のおもしろさっていうのは、そういうことじゃないんだ。きれいかきたないかというような問題ではないのだとも、そんなジレンマも感じています。そもそも景観がきれいなんて言うのは、ぼくらが、教育されて学んだことであって、身体的に感じる楽しさっていうのが別にあるんじゃないかと最近思っています。そのあたりどうなんでしょう。
- 大月
- みんな自由にやっているんだけど、でもみすぼらしくて汚いよね。という方が正しいのか。逆に、ピシッと管理されて、みんな清々しく、お互い自立して生きていこうね。っていうのが、正しいのか。それは、どっちも正しい。人間は変わるので、人間は変わるんだということを前提にしておかないと、いろんなものがダメなんです。変わったら、どっちが正しいかという評価基準も変わります。
- 土谷
- それは、一つは、建物(住人)の中でその2つの価値観が同時に共存するのですか。それとも、それぞれの建物内ではその価値観は統一されていくものなのでしょうか。
- 大月
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同潤会アパートでおもしろいのは、なぜ同潤会アパートがあれだけ住みこなされるのかというと、いまのマンション管理の根幹となる区分所有法の適応除外だったからなんです。区分所有法ができる昭和37年より前に分譲しちゃっているから、基本的には民法における共有物の管理法に従って、管理をやらなきゃいけないわけです。つまり、本当は全員合意で、共有物をメンテナンスしなければいけないんだけど、彼らのやり方は、一棟一棟登記しているところが多いので、4軒とか12軒とか、それくらいの単位で、自分たちに都合の良い独自のルールをつくっているんですね。
例えば、3階建ての住棟の場合、1階、2階、3階とあって、1階の人は、増築しやすいから増築できる。3階の人は、屋上があるから屋上を増築できる。2階の人は、実はベランダがあるんです。1階から2階にセットバックして、1階の屋根にベランダがあって、ベランダに増築できる。だから、みんなイーブンでいいんじゃないの、みたいなね。