MUJI×UR 団地リノベーションプロジェクト 対談
これからの日本の暮らしを考える~リノベーションという手法の可能性について~

MUJI×UR団地リノベーションプロジェクトでは、2013年11月に、UR都市機構の理事で西日本支社長をされている大西氏と、建築家の伊東豊雄氏の対談を開催。
大西氏と伊東氏、それぞれのアプローチから、近代主義的な暮らしのあり方から、これからの暮らしのあり方、そしてこれからの住宅のつくり方、についておうかがいしました。

伊東 豊雄氏

建築家。1941年生まれ。
1965年東京大学工学部建築学科卒業。
菊竹清訓建築設計事務所を経て伊東豊雄建築設計事務所設立。
主な作品に「せんだいメディアテーク」、「多摩美術大学図書館(八王子キャンパス)」、「2009高雄ワールドゲームズメインスタジアム」(台湾)、「今治市伊東豊雄建築ミュージアム」など。日本建築学会賞作品賞、ヴェネチア・ビエンナーレ金獅子賞、王立英国建築家協会(RIBA)ロイヤルゴールドメダル、プリツカー建築賞など受賞。
東日本大震災後、被災各地の復興活動に精力的に取り組んでおり、仮設住宅における住民の憩いの場として提案した「みんなの家」は、2013年10月までに9軒完成、現在も数件の計画が進んでいる。
2011年に私塾「伊東建築塾」を設立。建築と社会のつながりを深める活動を行っている。

大西 誠氏

独立行政法人都市再生機構理事・西日本支社長。1952年生まれ。
昭和54年3月東北大学大学院建築工学修了。
同年4月日本住宅公団入社。平成8年多摩平団地の建替事務所長となり、居住者・日野市・公団の3者勉強会を続けながら、居住者とのワークショップによる建替事業を進める。建替後の団地「多摩平の森」はリブコムアワード2008年の環境配慮型プロジェクト賞銀賞を受賞。
平成11年からの都市基盤整備公団計画課長時代に、「スケルトン賃貸住宅制度」を創設し、自ら汐留地区と河田町地区で実践。同19年都市再生機構本社業務第二部長時代にストックの再生再編方針策定に携わる。その後東京都心支社長、東日本都市再生本部長、本社審議役を経て現職。平成7年都市住宅学会賞(論説)受賞。また同年再開発コーディネーター協会優秀論文賞受賞。

MUJI
無印良品は“今の暮らしのスタンダードを考えていく”というコンセプトで家を作ってきましたが、建築を作るだけではなく、団地、コミュニティ、ひいては暮らし全体を見直そうとしています。そのプロジェクトの一環として、今回伊東さんとURの大西さんとの対談を企画しました。今回の対談では、暮らしだけでなくリノベーションそのものの枠組みについてもお伺いしてみたいということ、そしてそもそも暮らしとは何か、人が暮らしていて気持ちよくなるということはどういうことなのか、これから課題を抱える日本の中でどんな暮らしをしていけばよいのか、そういったあたりをお伺いできればと思っています。よろしくお願いします。
伊東
よろしくお願いします。私は集合住宅の設計はあまり経験がありませんが、集合住宅への関心は最近大きくなってきています。今までに手掛けた集合住宅は、URの“東雲キャナルコートCODAN”でした。
MUJI
集合住宅は暮らしのスタンダードを作るということでもありますが、まず伊東さんにとって住宅、または集合住宅というのはチャレンジャブルなお仕事なのでしょうか。
伊東
東日本大震災後、被災地に行って、被災地の問題だけでなく、日本の都市におけるライフスタイル、暮らし方が大きく変わるかもしれないという気配を感じています。そういった意味でも、集合住宅に関心が深まってきています。
MUJI
集合住宅への意識が変わったのは震災以降なんですね。伊東さんにとって東日本大震災は大きな転機だったのでしょうか。
伊東
私が日本で手掛ける仕事は、公共のプロジェクトが多いのです。そんな公共建築を通じて、もう少し自然環境に開いた建築を作りたいと、ここ十数年考えていますが、抽象的なレベルでのアイデアは浮かぶもののなかなか実現できずにいました。しかし震災後、三陸のような土地で自然と向き合って暮らしてきた人たちの話を聞き、もっとダイレクトにこの問題を追及してもいいのかな、と思うようになり、“これからの住まい方”に関心が向くようになりました。
MUJI
伊東さんはこれからの住まい方が変わっていくというイメージはありますか?
伊東
被災地で“みんなの家”というプロジェクトに関わっており、現在9軒の家が東北で建っています。その中の一つとして、宮城県岩沼市に今年7月に農業支援のための“みんなの家”を作りました。それは岩沼市で、田畑も被災し家も流されたような状況下で、もう一度農業を復興しようとしているNPOの人たちのために建てたものです。そのNPOが今年5月に田植えをするということで、インターネットで参加者の呼びかけをしたら、100人以上もの人が東京から押し寄せたんです。参加者は“支援しよう”というより“やってみたい”という気持ちだったようですが、この事実に示されるように、都会に住む若い人たちの意識が変化していると感じています。

また、内閣府の調査によると、大都市に暮らす20代のうち3分の1が、“もし機会があれば農村に移住したい”と回答しています。それが30代、40代になるとその半分くらいに減ります。そこには仕事や子育てなどの問題があると思うのですが、若い人は、暮らすのは都市でなくてもよいという考えになってきているようです。一般的には地方は過疎で、商店街がシャッター街で、若い人は仕事がない、と思われていますが、その一方で、都会に住む若者も満足しているわけではなく、地方への志向がかなり大きくなっていると感じるし、また被災地で若い人たちと話をすると、元気な人が多いんです。そんなことがあり、若い人の意識も少し変わっていくのではないかと思っています。
MUJI
震災が起こり、今まで信じてきたことが崩れて、社会というものの本来の意味を問い直しています。そして“幸福感”のような価値観も昔とは変わってきていますが、伊東さん自身も近代社会の制度、仕組みの中で、かつて建築の巨匠たちが活躍していた時代を経て、小さな山小屋を作るなど、アバンギャルドな活動をされていらっしゃいました。そして当時は“住宅作家”というジャンルが無かった時代です。40年近く建築に携わってきて、今までにもこういった時代の変化を感じたときはありましたか?
伊東
いくつかの節目はありました。70年代、私が30代のときには住宅しか仕事がなかったので、どうしてもそこで先鋭的になるというか、チャンスが来ると“一発決めよう”という気持ちで設計していましたが、ある時から次第にそうして作ってきた住宅に対して違和感を持つようになりました。建築は社会的な存在なのだから、社会からもっと受け入れられる存在になるべきだと。そして40代の時には、自邸を含め色々な試みをし、もう少し社会的な意味を持つ建築を考え始めました。

それでも、当時は自分の意識下での“構造改革”に終始していたように感じます。そんな中、もっと直接的に社会との関係を考えないといけないと、特に震災後に感じるようになりました。そして私だけでなく、多くの頑張っている建築家はそんな思いを持っており、“社会のために”というけれど、本当に住む人のことを思っているのだろうか、建築が建築家に向けたメッセージになっているのではないか、と考えています。建築家自身が変わらないと、建築も社会に受け入れられるものにならないなと感じています。

現在、“くまもとアートポリス”プロジェクト(若い建築家に公共建築のチャンスを与えるべく、27年間続いている取り組み)で6、7年コミッショナーとして関わっていますが、良い建築と思って推薦する若手建築家の作品が、必ずしも現地では受け入れられないことがあります。そのギャップについて、建築家の中には“地元の人は分かってない”という考えもありますが、分かっていないのは建築家自身なんじゃないかと感じるようになってきました。それが何かを確かめるためにも、被災地に通っているのです。被災地の支援というよりは、自分自身が建築の問題を考える、そして建築家自身の問題も考えるために足を運んでいます。