MUJI×UR 団地リノベーションプロジェクト
トークイベント「千里ニュータウンと団地の魅力」

※このレポートは、2016年2月6日に新千里東町団地集会所で行われたトークイベントの模様を採録しています。

太田
さて、本題の新千里東町団地についてご紹介します。
敷地北側に高層住棟が4棟あり、南、東にかけて中層住棟が配置されています。中層住棟は大阪万博の従業員宿舎として建てられ、その後公団の団地となりました。公団が本格的に囲み型配置を導入したのがこの団地です。住棟に囲まれた中庭同士が歩行者通路で結ばれており、変化に富んだ外部空間を生み出しています。新千里東町の府営住宅では、囲み型の中庭は住棟で閉じられているため、住民は「うら」と呼んでいましたが、UR新千里東町団地では中庭は通り抜けの空間でもあるので、「うら」という意識はなかったようです。
府営住宅は当初は中庭に車を入れない設定になっていましたが、UR新千里東町団地は初めから中庭に車が入る「歩車共存」を採用していました。
歩行者通路がつなぐ中庭の連続は、集落的な空間をイメージさせます。
太田
団地周辺部の景観をご覧いただきます。団地南側を通るモノレールの車窓からは千里中央に向かって緩やかに高くなる団地のスカイラインが見渡せます。また、こぼれび通り沿いでは公園や道の緑と団地の緑が一体になった緑豊かな景観が続いています。
太田
団地内部には高層エリアと中層エリアの境界に沿って歩行者のメイン通路があり、通路を東に辿ると進行方向に視線が導かれ、団地中央部に至ると雄大な広場の景観へと劇的に変化します。
太田
一方、中層のエリアは中庭が点在し、歩行者通路を辿ると集落の中を歩いているような気持ちの良い、ヒューマンスケールの空間になっています。
UR団地の屋外空間の魅力は、団地の中に四季を囲い込んでいるところだと思います。四季それぞれの風景が団地の中で展開しています。
太田
最後に、新千里東町団地の暮らしの歴史についてお話しします。この団地はもともと大阪万博の外国人従業員宿舎から始まりました。
太田
団地に長くお住いの方にインタビューしましたのでご紹介します。大阪万博が終わった後は一般の方が入居しました。浴室には外国人向けに当時珍しかったシャワーがついていましたので、入居したときは嬉しかったそうです。

万博後の入居当初の印象

団地居住者(70歳代主婦)へのインタビューより

Q:
万博が終わってすぐの頃に入居されたんですね。
Aさん:
万博が9月に終わって。2~3ヶ月たってから。
Q:
そのころはやっぱり抽選ですか?
Aさん:
抽選です。ものすごく厳しかったですよ。20回外れて、やっと入れたという人もいました。
 
シャワーがあると言って、ものすごく喜んで。当時、お風呂もあんまりない時に、外国人の宿舎だったのでお風呂に固定ですけどシャワーがついてて。それまで、私たちはシャワーの生活なんて知らんかったからね。第一、40年代にシャワーがある家なんかないのよ。

1970~80年代団地の子どもたち

団地居住者(70歳代主婦)へのインタビューより

Cさん:
子どもは多かったね。階段でね10人はいてたのと違うかなぁ。それぞれの家に2人ずつ。
Aさん:
もっといたと思うよ。私入って来た時びっくりしたもん、子どもばっかりで。
Q:
子どもは、友達の家に遊びに行ったりしてました?
Aさん:
昔、私たちが子育てしている頃は、どこのお家も鍵かかってなかったんです。夏暑かったら、扉開けてましたもん。凄く開放的でしたけど。
私が出掛ける時、鍵なんかしてたら、他の家に行ってましたもんね。そして、奥さんが、うちにいますって書いて、貼り紙して。

1980年代新千里東町の子どもたちと団地の遊び場

東町で子ども時代を過ごした40歳前後のお父さんたちへのインタビューより

Dさん:
C棟(UR団地)の集会所の向こうに公園あるでしょう。そこにすり鉢状になったすべり台があって、そのすべり台で、昔ほら、ローラーゲームってあったやんテレビで。あのめっちゃ暴力的なやつ。あれのようにぐるぐる回る。
Q:
ローラースケートでですか。
Dさん:
ローラースケートで。で、ちょっとランクアップすると、チャリンコで回る。やりましたよ。これができたらやっと男や。
Q:
そのアリジゴク、すり鉢の直径ってどれぐらいなんですか。
Dさん:
どれくらいかな、10mぐらいあったんちゃうかな。

太田
団地は外からも自由に入れますので、地域の子どもたちの遊び場にもなっていました。カーテンを開けると住棟に囲まれた広場があり、お母さんたちは広場で遊ぶ子どもたちの姿を住宅から眺めることができました。

団地祭

団地居住者(70歳代主婦)へのインタビューより

Aさん:
団地祭では模擬店が忙しいんですよ。こんな大きなカネのもので炭おこしてもらって、竹串にパンの生地を巻きつけて焼くんです。中にマーマレードかイチゴジャムを入れて食べるんですけど、それは凄い人気でね。私はいつもその当番なんですけどね。
あと、焼きそば、焼き鳥、おでん、豚汁。この団地祭はずっと続いてます。
Q:
夏ですか、秋ですか?
Aさん:
秋に集会所でやります。小さいですけどお神輿もあって。
Q:
団地祭は最初からありました?
Aさん:
私が入った頃はもうありました。だからたぶん最初からあったんだと。

太田
団地の祭りは現在も盛んで、名物は竹串にパン生地を巻いて焼くというイベントです。焼きそばがあったりおでんがあったり、たいへん賑わっています。

ギンバシ:こぼれび通りと団地を結ぶ歩道橋

アカツチ:集会所横の広場

太田
団地には地域の子どもたちも集まってくるのですが、子どもたちは団地の中のお気に入りの場所に愛称をつけています。団地が地域とうまく融合していたということが、子どもたちが愛称をつけていたことでわかります。
最後に、建設間もない公団団地と子どものいる風景を紹介します。

建設前の千里中央・公団新千里西町団地(左端)・新千里北町団地(中央)昭和42(1967年)

新千里西町から望む公団新千里東町団地と万博パビリオン 昭和45年(1970年)

大雪の公団新千里東町団地 昭和46年(1971年)新聞「千里」より

千里南公園上空から見た公団千里津雲台団地 昭和38年(1963年)

公団千里津雲台団地・千里南公園・新千里山駅(現南千里駅)周辺 昭和38年(1963年)

ボックス型住棟と駐車場 昭和40年(1965年)頃

「祝万国博覧会」の表示のある広告塔と団地 昭和41年(1966年)

団地風景 昭和43年(1968年)

プレイロット風景 昭和40年(1965年)頃

警笛禁止標識 昭和43年(1968年)

北千里と千里中央を結ぶ新千里3号線から見た団地 昭和40年(1965年)頃

団地内歩行者通路とスロープ造成、ボックス型住棟

団地風景 昭和40年(1965年)頃

集会所 昭和40年(1965年)頃

青山台近隣センターと公団千里青山台団地 昭和40年(1965年)頃

川内
太田先生、ありがとうございました。子どもたちがいた写真が印象的でしたね。続きまして門脇先生、よろしくお願いいたします。