MUJI×UR 団地リノベーションプロジェクト
7/14 MUJI×UR トークセッション 「住まいと暮らしのセッションによる豊かさ」

※このレポートは、2024年7月14日(日)に無印良品 グランフロント大阪で行われたトークイベントの模様を採録しています。

part1:団地での暮らし
松枝
本日はお集まりいただきありがとうございます。
「MUJI×UR未来の日本の暮らしを考えるトークセッション」を開始させていただきます。本日、進行を務めさせていただきます、株式会社MUJI HOUSEの松枝と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
2023年9月に無印良品 グランフロント大阪のリニューアルオープンに合わせ、MUJI×URの住戸を再現したモデルルームを新たに設置したことを機に、昨年の9月からトークイベントを開催しております。毎回、暮らしにまつわる多様なゲストの方をお招きして、未来の日本の暮らしについて様々な角度から考え、MUJI×URの今後のプロジェクトに生かしていくという目的で実施しております。
MUJI×UR団地リノベーションプロジェクトは、大阪からスタートしました。2024年までに全国71団地までに広がり、現在リノベーション住戸は約1,200戸以上、北は北海道から南は福岡まで展開をしています。

これまで、リノベーション住戸を普及させていきましたが、これからは住戸を増やしていくだけではなく、トークイベントなどで皆さんから暮らしについて、色々とご意見を伺いながらプロジェクトを充実させて行きたいと思っております。

皆さまお待ちかねと思いますので、ゲストの方にご登場いただきましょう。
本日のゲストスピーカーは、ジャズピアニストの大江千里さんです。
大江
皆さん、こんにちは。
本日はよろしくお願いします。
大江でございます。
松枝
大江さん、本日はよろしくお願いします。
今日のイベントですが、千里さんと呼ばせていただいてもよろしいでしょうか?
大江
もちろんです!
松枝
ありがとうございます。
お集まりいただきました皆さんご存じかと思いますが、千里さんについてご紹介をさせていただきます。
1983年にシンガーソングライターとしてデビューし、数々のヒット曲を見出されました。
2008年にジャズピアニストを目指し渡米され、現在はニューヨークを拠点にジャズピアニストとして活動されております。
大江
6月24日に日本に着きまして、ちょうど2週間ぐらいです。時差ボケがひどくて。「何週間おるねん!」って周りに突っ込まれています。
松枝
本日は「団地」をテーマとして、千里さんと色々とトークができればと思っています。
モデレーターとして、UR都市機構の長谷川さまと、株式会社MUJI HOUSEの松本の2人が参加させていただきます。
長谷川さま、自己紹介をよろしくお願いします。
長谷川
UR都市機構の長谷川です。
千里さん、本日はよろしくお願いします。
大江
会いたかったです。
長谷川
私もです!
オンラインでの打合せと本日でお会いしたのが2回目になりますね。
よろしくお願いします。
不動産・賃貸住宅マニアでもあります千里さんとお話しができるのがとても楽しみです。
大江
よろしくお願いします。
盛り上がって行きましょう。
長谷川
今日一緒に登壇させていただくMUJI HOUSEの松本さんとは、10年来のお付き合いになります。
私はMUJI×URの立ち上げメンバーの1人なのですが、12年プロジェクトに関わっています。
松本
長谷川さんからご紹介いただきました、MUJI HOUSEリノベーション事業部の松本です。今日はよろしくお願いします。
小さい頃は、団地と関わりが全くありませんでしたが、結婚をして、子供が生まれてから今後の住まいをどうするのか?と考えていた時に初めて団地と出会いました。
そこから団地にはまってしまい、そのまま今の仕事である、団地をリノベーションする仕事についています。
大江
よろしくお願いします。
松枝
皆さまありがとうございます。
本日は「住まいと暮らしのセッションによる豊かさ」をテーマにトークセッションを行いたいと思います。

まずは、千里さんのこれまでの暮らしの変遷についてです。実は団地とゆかりもあるということで、後ほど団地で暮らしていた時のエピソードなど色々とお伺いしたいと思います。
また、現在はニューヨークのブルックリンを拠点とてして活動をされていますので、そちらでの暮らしについても、いろいろとお話を聞きたいと思います。

事前に打ち合わせをさせていただき、千里さんの生活・暮らしの感覚が、MUJI×URのコンセプトに共通する部分が多いと感じました。
そういったところにつきましても、団地の今後の可能性というテーマでディスカッションもさせていただけたらと思いますので、よろしくお願いします。
大江
僕の横にピアノが置いてありますよ!
松枝
せっかくの機会なので、少し演奏をお願いできればと思い、ご用意しました。
大江
ちょっとだけですが演奏しましょう!
お付き合いいただけると嬉しいです。
たくさん喋るぞ!
松枝
団地での暮らしということで、千里さんから写真を共有いただきました。
大江
写真に写っている公団の春日丘団地に住んでいたのは、僕はちょうど1歳2ヶ月ぐらいのころで、まだ首が座っていない時期ですね。
長谷川
春日丘団地は千里さんの生まれ年と同じ1960年に入居の募集を開始しています。
大江
春日丘団地の狭い方に住んでいて、2歳か3歳ぐらいの時に、お部屋が大きい1号棟の3階が当たり、家族で、「うわぁ!」と盛り上がったのを覚えています。妹が生まれる前ぐらいだったと思うのですが、その後引っ越しをしました。

僕の中で団地の思い出が2つあり、父は新聞社で働いていたので、団地の抽選会には母が参加していました。台風の日に結果を待っている僕に向かい、母が大きく手でバツ印を出して抽選に外れてしまったことを伝えてくれたのですが、それを見て僕は「あー」って泣いたのを覚えています。
先程お伝えした、1号棟が当たった時は「俺は1号棟が当たってんねん」という夢のような気持ちでいました。

2つ目は、住んでいた団地が、今は無くなってしまいましたが、藤井寺球場の目の前にあり、近鉄バッファローズの太田幸司選手のホームランボールがどんどん飛んできていたんです。緑色の袋を持って、あちこちボールを探し回っていたことを覚えています。
長谷川
こちらの左側が古地図になり、資料の赤いところが、千里さんが住んでいた春日丘団地になります。右側は今の地図となりまして、もう藤井寺球場はなくなり、古墳は今もそのまま残っています。
大江
僕は部屋のベランダに立って、駄菓子屋さんで見つけてきた白いメガネの真ん中をくり抜いて、マジックで黒く塗って、笛を持ってピピピと鳴らし、学校の先生ごっこをしていました。

女の子達は、団地内の公園で、「おかえりなさい」や「お風呂にします?」みたいにおままごとをして遊んでいました。だんだん盛り上がってくると、男の子も女の子も一緒になって走り回っていましたね。

団地の周辺についても覚えています。
駅までの道、妹が生まれた産婦人科、パン屋さん、お友達が住んでいた家。
少し離れた小学校まで通っていましたね。
団地に住んだ後に一戸建てに引っ越したり。

当時習いに行っていたピアノの先生のお家も近くにありました。古い一軒家の家で、将来オペラ歌手を目指している高校2年生の先生でした。

その先生には「チサト」と呼ばれていました。
家の引き戸をガラガラガラと開けて、庭にあるアジサイをくぐりながら離れにあるレッスン用の部屋に行くんです。
母に作ってもらった、大きなバッグにハノンとかを入れていました。

練習を終えて帰る時は、団地にある大きな木があるところを通っていました。夏だとセミがミンミン鳴いているようなところでしたね。
住棟の下に植えられていた植物がちょうどアンダーパスみたいになっていて、まだ小さかったのでそこを通り抜けてみたり。
団地なので、大きな声を出すと反響するんです。
なので「オールナイトニッポン!」とか団地に向かって言ったりして遊んでいましたね。

まだ小さかったので、バッグが大きくて引きずってしまっていたんでしょうね。夕方の6時過ぎくらいに、ピアノの練習から帰っている途中で底に穴があいてしまい、周辺に散らばった楽譜を頑張って拾い集めるんですが、だんだん周りが暗くなってしまい、「ママ!ママ!ママ!」と泣きじゃくりながらかき集めたこともありました。
大江
団地にはドラマがありますよね。
泣きじゃくりながら楽譜を集めていたり、台所で大根を切っていたり、近鉄バッファローズの太田幸司選手のホームランボールが飛んできたり、駄菓子屋さんで買ったおもちゃのメガネをかけて笛をピピピってしていたり。

まだ小さい頃に団地に住んでいたので、自分で行動できる範囲以外は、別世界に行く気持ちでした。
1回電車に間違えて乗ってしまい、補導されたことがあるのですが、その頃の僕にとって2駅先は、外国より遠い感覚でした。
長谷川
その範囲は、大体徒歩15分圏内ぐらいですよね。
大江
16分ぐらい行くと心臓が爆発するっていう感覚ですね。
長谷川
白黒のものになっていますが、当時の団地内の様子が分かる写真を用意しました。
給水塔も写っています。当時は、市の水道管の水圧が低かったので、団地にお住まいのご家庭に給水するために高いところに1度水道水を上げ、落ちてくる水圧で、皆さんのご家庭に供給していました。
残念ながら、建て替え後の団地にはなくなってしまいました。

写真の下に、丸いオブジェがあるのですが、春日丘団地建設当初からある、春日丘団地の銘板で、建て替えた今も残っています。
長谷川
次の資料が、春日丘団地をアップにした配置図です。右側が1960年のもので、左側が2008年以降の建て替え後のもので、団地の範囲が小さくなりました。先ほどニューヨークに行かれたのが2008年だということを伺い、とてもびっくりしました。
長谷川
千里さんの住まれていた春日丘団地は建替えを行い、現在は「サンヴァリエ春日丘」になりました。資料の地図で赤い丸をつけているところは、特徴的な住棟の「スターハウス」です。
こちらの一つを、先程お話ししました、給水塔の変わりになる受水棟とし、水を溜めておくタンクを中に入れて活用しており、このスターハウスだけでなく集会所廻りの樹木も残して当時の面影を残しています。写真ではあまり見えていませんが、右の写真の左側の住棟は約10階建ての高層住棟に建て替わりました。

土管のある広場があった遊び場や、団地の真ん中の集会所廻りなどの面影は、残すことを建て替え設計のコンセプトにしました。土管は建て替え設計時点にはすでに無くなっていましたが、樹木を残したり、集会所の建て替え前のかわいらしいスケールも継承しました。
お話し忘れてしまっていましたが、実は20年前にこの建て替えの設計担当を私がしていました。春日丘団地とはそんなご縁になっています。
大江
当時の面影をなんとか探そうとしているのですが。
長谷川
樹木がどんどん大きくなっているので昔の面影を見つけるのは難しいですね。
大江
そうですよね。
僕が覚えているのは、当時白壁で道がレンガでできていて、アプローチになっている階段を上がって、その白壁の横を抜けるとパン屋さんに出ていたと思います。団地に戻ってくる時も白壁を見ながら階段を3段くらい降りたところに草むらがあって、太田幸司選手のサインボールがあった気がします。

1号棟、2号棟、3号棟の辺りに大きな高架橋があって、そっちから団地の外に出て行くと、どんどん不安になってしまっていました。
自分の庭というか、生活の中の動線がもう団地の中、子供の世界の中で全部完結していました。
長谷川
当時の公団団地の設計時には「団地全体を自分の家」として使ってもらおうという思想があり、建て替える時もその思想を引き継ぐことができないかと議論しました。
大江
駄菓子屋さんで買ったおもちゃのメガネをかけて笛をピピピと遊んでいたら、近所のみんなが見ていますからね。次の日には「あんた昨日メガネかけて笛鳴らして遊んでたやろ?」って声かけられて、恥ずかしいから「いや、やっていないよ。」って答えると「うそ。マジックで塗ったメガネかけてたやろ!」って言われましたね。
長谷川
今はそういった近隣の方との関わりがちょっと面倒くさいと思われてしまいますが、当時設計する際は、近隣の方の目があった方が、皆さんの幸せな暮らしに繋がっていくのではないかと議論されていたようです。