MUJI×UR 団地リノベーションプロジェクト
1/27 MUJI×UR トークセッション 「団地の暮らしと間取りの変遷」
- 松枝
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今回は団地の暮らしと間取りの変遷というテーマで、大きく4つお話をさせていただきたいと思います。
まず、「団地の住まい方から見る間取りの変遷」ということで、井上先生からお話をお願いしたいと思います。よろしくお願いいたします。 - 井上
- 京都女子大学の井上です。よろしくお願いいたします。
- 井上
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私に与えられたテーマは、“団地の暮らしや住まい方から見る間取りの変遷”です。
大阪の皆さんは、千里ニュータウンなどもあるので、「団地」がどのようなものかを何となくイメージができるかと思うのですが、「団地」という言葉を初めて使ったのは、日本住宅公団という組織で、今は「UR」という名前に変わっています。日本住宅公団の1958年のパンフレットが最初という風に言われています。
- 井上
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その前から団地的なものは存在していました。例えば、同潤会青山アパートです。同潤会というのは、関東大震災の復興のために作られた団地です。それ以外にも、公営住宅や公務員住宅などが既に存在していました。
ただ「団地」という言葉自体が、1958年までは使われていなかったということです。
戦後の日本はかなりの住宅不足に陥り、政府の住宅不足対策として建設されていきます。
住戸を1戸1戸設計していたら、とっても時間がかかってしまうので、1戸作り、同じものを大量に作っていく「標準設計」という手法が採用されています。
- 井上
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公団住宅55-N-2DK型というのが、公団が作った最初の間取りで、そのあと爆発的な大ヒット商品になります。暗号のようになっているのですが、55という数字は1955年を意味します。Nというのは、階段室が北側にあるということで、2DKが2つの部屋と、ダイニングキッチンですね、台所・食事室と書いてありますけれど。この間取りが1番最初の間取りとなります。
今、「ダイニングキッチン」という言葉を普通に使っていますが、これは英語ではなく、この時に作られた造語になります。 初代の建築部設計課長の本城さんが命名しました。若い家族をターゲットとして、 暮らしの洋風化や美しい内装設備を目指しています。
こちらが当時の写真です。
- 井上
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今の感覚ではなんだかなという風に見えるかもしれませんが、この流しはまだはステンレスではありませんでした。
こちらは食卓テーブルです。造り付けなのですが、1950年代に欧米で流行ったミッドセンチュリーというデザイン様式のものです。こちらが展開されたのが1955年ですので、同時代に置かれています。
- 井上
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日本は戦後で貧しかったのもあり、欧米で流行しているものが遅れて日本に入ってきていましたが、同時代で造り付けの家具に流行していたデザインを頑張って採用されていました。
建築部設計課長の本城さんの、意欲的にかっこいいインテリアにしていくんだという覚悟が見えます。
キッチンも1958年からはステンレスの流し台へ変わって行きます。公団が最初に導入したのですが、当時のインテリア・設備からすると、非常に新しいものでした。そして先ほどと重複しますが、若い世代に大人気となりました。
ダイニングキッチンの間取りが供給されたのは、実は堺市の金岡団地のようです。公団で初めて採用されるものはなぜか関西が多い傾向がありますね。
- 井上
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この間取りはどこから来たのかというと、半年ほど早く供給された公務員住宅のRC55N型という間取りです(左図)。2つを比較してみると全く同じです。異なるのは浴室です。この時代はお風呂は銭湯に行く時代でしたので、内風呂がなかったんです。公務員住宅RC55N型では頑張って内風呂を作ったのですが、浴槽がありませんでした。浴槽は入居者が購入する仕組みになっていました。
それに対して公団は、浴槽がはじめからついていたというところが、違いになります。
どうしてこうなったかというと、本城課長の証言でも残っているのですが、とにかく時間がなかったので、標準設計の間取りを使い回したそうです。
当時は、標準設計の間取りは大量生産するために作っていたため、今で言うフリー素材のように自由に使用してくださいというものでした。そのため、この間取りを採用したという記録が残っています。
- 井上
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流し台上部の収納棚は、大正時代に主婦の地位向上を目指した生活改善運動があり、主婦の動線など台所の色々な設備をよくしていくとことを目的として活動していたため、吊り戸棚や水切りかごなどはすでにありました。
では、ステンレス流し台についてですが、これも本城課長の証言が残っており、当時の公団初代総裁の加納さんが、採用を決めていたそうです。
加納さんはロンドンに20年以上暮らしていて、ロンドンの勤労者の家と同じぐらいの設備にしたいという思いで、ステンレスの流し台やシリンダー錠などを取り入れたようです。
- 井上
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加納さんのことについても調べてみたのですが、公団が設立されたのが1955年の7月で、その4日後には知り合いの建築家たちを招き、公団の将来像を語りあい、相談もしていたようです。
その中に、有名な建築家であるアントニン・レーモンドも参加していたそうです。
公団としては中層の建物を一生懸命作っている段階だったのですが、アントニン・レーモンドは高層アパートを造ることを提案したそうです。
また、研究費を惜しむなということもアドバイスしたそうです。
公団はステンレスの流し台を作る時に、高さや奥行きをどうしようなど、実験しながら細かく寸法を決めているんですが、こういったことが「研究費を惜しむな」というアドバイスによるものなのかなと思いました。
そして加納さんはアントニン・レーモンドのアドバイスを受け、部下に中層と同じ予算で高層を作ることを検討させています。それが形となったのが1958年に完成した晴海の高層アパートです。
とても有名な建物で、設計を担当したのが世界の近代建築の三大巨匠と言われている建築家のル・コルビジェの事務所で働いていた前川國男さんです。
高層なので、初めてエレベーターが設置されます。
ステンレスの流し台、「団地」という言葉も1958年に初めて出てきたことを申し上げましが、恐らく加納さんは晴海の高層アパートができた「1958年」に色々なものを合わせてきたのではないかと。これを、公団の「顔」にしたかったのではないかなというのが、今回調べた私の感想です。
公団も設立してすぐなので、今後どのようにブランディングしていくかを考えていたと思います。公団が設立されたのが1955年の7月にも関わらず、加納さんは年内に2万戸を発注するというノルマを国から課せられます。どう考えても時間がないので、公務員住宅で展開をしていた55-N-2DK型の間取りを展開して乗り切ろうと考え、加納さんの理想モデルは、晴海の高層アパートで実現させようと考えていたのではないのかなと思いました。
一方、本城課長は、2DK型を担当していたため、「これで行こう」と思っていたと思います。この方は2DK型を本気でかっこよくし、若い家族向けのおしゃれな住宅にしていこうと思っていました。「インテリアが暮らしを変える」と思っていた節があります。
実際に、55-N-2DK型はとても人気となり、こちらが先に理想のモデルとなってしまい、設立当初5~6倍だった入居倍率が5年ぐらい経つと31倍になり、公団というブランド自体が大ヒットとなりました。
2DK型についてですが、公団の2DK型は公務員住宅をもとにしていました。公務員住宅のこのRC55N型というのはどこから来たのか?と思うのですが、筑波大学の褚 秋霞さんという研究者の方が、ドクター論文の中で丁寧に研究・分析していて、これが公営住宅51C型標準設計というものから来ているということが分かっています。
- 井上
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「51C型」。こちらも暗号みたいですが、1951年にA・B・Cという3タイプの間取りが設計されました。公営住宅とは低所得者の方向けの住宅で、都営住宅や市営住宅などがあります。
その中でA・B・Cと3つ、これはAが16坪、Bが14坪、Cが12坪という決まりの中で設計されました。
「51C型」は1番小さいプランでしたが、それがなかなかいいものなんです。
まず、玄関に入ってすぐ、土足でそのまま入れる物置があります。
今で言うシューズクロークのようなもので、当時はなかったのですが、今だったらベビーカーを置いたりすることが出来ます。
このスペースに置きたいものがたくさんあると思うので、奥さんたちは「これいいな」と思ったと思うんですよね。
公務員住宅RC55N型では浴室をつくっていますが、51C型はRC55N型と比べて住戸面積が狭かったので浴室をつくれず、代わりにシャワールームがあります。
シャワールームも当時としては画期的ですが、このスペースで洗濯もします。
当時、電気洗濯機はないので、たらいでゴシゴシ洗う暮らしになるのですが、たらいで洗い、そのままバルコニーに出て、干せる。主婦の動線をとても考えているんですね。
- 井上
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公務員住宅RC55N型の間取りでは、北側の浴室で洗うことになりますが、洗って、南側のバルコニーまで運ばなきゃいけないので、51C型は主婦の動線を徹底的に考えているところがすごいなと思います。
51C型の間取りの方が狭いと言いましたが、こちらは11坪ぐらいです。12坪の予算で作れと言われて、この予算には階段室の面積も含むので、住戸面積としては11坪程度のものが出来上がっています。
南側のダイニングキッチンも既にここでできているのですが、このダイニングキッチンも、手描きの図面を確認すると、流しとガス、作業をする人が三角形の位置関係になり、あまり動かずに料理が作れる仕組みになっていて、とても考えられていることがわかるんです。
- 井上
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先ほどもお伝えしましたが、日本には大正時代から一生懸命主婦の動線を考える人たちがいたのですが、その考えを標準設計に入れたことで一気に日本中に広がり、一般化されました。「主婦の視点」が一般化した間取りとして、とても評価できると思っています。
そして何よりすごいのは、設計をしたのは鈴木成文さんという、当時東京大学の大学院生です。
A・B型は、吉武泰水さんという鈴木成文さんの先生が設計しているのですが、今後の日本を考えてA型やB型の供給をメインに設計されていて、C型はほったらかしになってしまっていたそうなんです。
C型の設計を対応してもらうため、都の職員が学生を捕まえて依頼をしたのが、のちに東大教授になる鈴木成文さんです。
そんな感じで設計を進めていたところ、だんだん吉武先生も日本は今A型やB型の住戸の供給ではなく、C型が重要だということに気が付き、吉武先生もこのC型の方をアドバイスして、この間取りが出来上がったようです。
男子学生だったのでおそらく、主婦の導線を自分の経験で取り入れたわけではないんですよね。調査や文献で調べたり、とにかくたくさん調べたんだろうなと感じています。
そういったところが学生のすごいところで、私も普段は学生とふれあっていますが、社会人だとある時間の中で赤字にならないように・・・とか限られた中で考えるのですが、学生は、「もしうまく設計できたら、君の案を採用してあげるよ」と言われると、もうできる限り調べて色々考えるという、そういう傾向を感じます。そういったことから、この間取りもうまくいったのでないかなと思っています。
その後の話ですが、こちらが55型以降の間取りの変遷です。
だんだん時代とともに、日本が経済的に豊かになってくるとともに、住戸面積が大きくなっていきます。
- 井上
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間口を見ていただくと、間口は広がらず、奥行きが伸びています。
これは、不動産・事業者さんにとって、この方が経済的に効率的だからです。
そのため、光や風が入らない空間が出てきてしまうのですが、そこにキッチンが追いやられたり、トイレやお風呂がレイアウトされたりして行きます。
こちらの間取りがだんだん減っているのは、家族の人数が減っているという時代背景があります。
当初、革新的な試みを模索しながら、大量供給していました。一般的なイメージとしては、公団住宅っていうと安心安全な住宅を供給していこうとなってきているのではないかなと思います。
実はあまり知られていないだけで、公団による革新的な試みというのはそのまま行われています。
その1つとして、KEPをご紹介したいと思います。
- 井上
- こどもが成長すると「間取りを変えたい」と思ったことがある方もいらっしゃるかと思います。KEPは、居住者が自由に間取りを変えられるようにあらかじめ作っておこうという考え方となります。
- 井上
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この間取りを例として説明をすると、ここ(赤線部分)に家具(①)があります。これを壁に寄せれば、広く、部屋として一室で使うことが出来ます。しかし、ここ(部屋の中央)に配置すると、部屋と部屋の間仕切り壁になります。家具は天井までの高さでピタっと合うように作られています。
こちら側(図中②)も、こちら(右側;台所との境)にパネルをはめると、和室に付属する小さな空間になります。
例えば寝室にして、ここを書斎コーナーにすることが出来ます。
- 井上
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今度は、こちら側(左側;和室との境)にもピタっと家具をはめられるようになっているので、こっちにはめるとキッチンが広くなって、ストックルームになります。
こういったように、居住者の生活が変わることによって、間取りを変えていくことができるようにしようというものだったんです。
居住者の評価はとても高かったのですが、家具を取り付けているのでコストがすごくかかってしまっていたので、事業の採算的にあまり広がりを持たないプロジェクトになってしまっていました。
実際にこの事例ができたのは1982年のことで、その後、続いて供給されることはなかったので、KEPは失敗だったんだろうなというのが私の当時の認識でした。
ところで話が変わるようですが、無印良品が2002年ぐらいから住宅の方の事業に乗り出してドアノブなどを販売し始めていました。良品計画の代表取締役会長の金井さんが、当時お話しをされていたのですが、商品の点数が増えていくと、商品同士の寸法が結構重要だと。そこで、寸法を合わせていく「モデュール化」が新たな課題に加わったということを言っています。それは今回、調べた記事に書かれていました。
実は今回、探していた記事は、これとは本当は違う記事なんです。2002年頃、私は別のインタビュー記事を見て、そこで金井さんが、「実はKEPみたいなことをやりたかった」という風なこと、「そこを目指していた」みたいなお話をされていたんです。
とても印象に残っているのは、KEPという名前は業界的に忘れられてしまっていたと思っていたのですが、金井さんがKEPという名前を出したことです。KEPを知っていることが強く記憶に残っていました。 無印良品が住宅事業に進出するとして、どこまで本気なのか?と正直思っていたのです。 金井さんからKEPという言葉を聞いて、「あ、これは本気だ」と。住宅の事をとても調べて、方向性を決めているんだと感じました。
また、「失敗作」だと思っていても、20年後になってこういった形で再度注目されるプロジェクトもあるんだと思いました。
そしてさらに10年後、2012年に無印良品がURと組み「MUJI×UR」をスタートさせたとうかがった時には、「無印良品は本当にKEPやるんだ。とうとうやるんだな。」と思いました。
例えばKEPをさらに展開させて、ある家では、「ダンボールふすまはいらない」けれど、隣の家では「ダンボールふすまがもう1枚欲しい」となった場合、そこで融通するなど、新たな視点でいろいろなことができそうだなとも思いました。
こういった流れもあり、リノベーションの時代となって行きます。
団地の間取りは、少子化になってくると当然ですが、大型の間取りの人気がだんだんなくなってきてしまいます。
一方で、光と風が気持ちよく通ることや眺望が良いことなど、メリットもたくさんあります。
そのため、既存の住戸をリノベーションすることで、いいところをしっかり残していこうとなっています。
- 井上
- こちらは古い間取りの住戸です。とてもきれいなのですが、和室が多いなどといった理由で人気があまり出ませんでした。
- 井上
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次にこちらの住戸ですが、2013年から京都の洛西ニュータウンの5団地で「京都女子大学×UR」というのをやっていて、学生がリノベーションしたものになります。
元々は換気扇フードがなく(前の写真は換気扇フード的なものを付けている)、壁面が大きく見えているので、こういった、ブルーのタイルでアクセント壁にすることで、きれいに見せています。
- 井上
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例えばこの住戸は、玄関横にシューズクローク、インナーテラスがあります。ベビーカーなど置けそうなスペースがあったりするのですが、さっきの51C型と似ていますよね?
学生が一生懸命考えて出てきたアイディアになるので、51C型を参考にしているとは思えないのですが、やっぱり同じように生活者の視点で考えているんだなと感じます。
- 井上
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そしてこちらの写真ですが、光と風がどうやったら入るのか?
特に奥行きが長くなっているプランとなるので、どうやったら部屋が明るくなるのかを考えながら設計しています。
南北に風と光を通そうと思うと、この間をガラスにして風と光が通るようにして間取りを作っています。
分譲マンションの住戸リノベーションは個人の若いご夫婦が中古マンションを買って、リノベーションするというパターンが圧倒的に多いです。
価格を調べてみると、800~1200万ぐらいかけてリノベーションしている傾向があります。
URであったり公営住宅であったり、大量に古い物件を抱えているところは、リノベーションにコストをかけることが難しいんです。どうやってコストを抑えてリノベーションをして、みなさんに供給していけるのかがとても重要になります。
「京都女子大学×UR」よりも「MUJI×UR」の方が多分厳しい予算ではないかと思うのですが、できるだけコストをかけずにいいものを提供することを実現させていると思います。
皆さんご存知のように、古い中層団地には多くの場合エレベーターがありません。
エレベーターをつけないと、入居してくれないと思われていたのですが、URが4階、5階にリノベーション物件を展開したことで、若い方たちが、エレベーターがなくても住みたいと入居してくれるようになり、空き室がぐっと減ったという効果もあります。
- 井上
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住み手の方にとってみれば、色々な選択のバリエーションが増えています。
例えば、暖房効率を優先される方は、元々の間取りで、細かく分かれているお部屋がいいわけですし、暖房効率よりも広いリビングが欲しいという方は、リノベーション物件で選べばいいので、入居をする人の選択のバリエーションも広がっていくということになります。何より若い世代が団地に住むようになって、空き室が減りました。
UR団地の間取りで、設立当初と変わったところ、変わらないところのまとめになりますが、若い家族向けの住戸には、インテリアに力を入れたら入居してくれ、昔に本城課長が考えたことと、今のURの方たちが考えていることが同じで、また回帰しているなという印象を受けました。
光と風が通る住まいということも、大事だということが分かってきて、リノベーションで解決することが出来ています。
その背景には、若者や女性の視点が加わり、多様な意見を取り入れてゆく方法もあると思いますし、外の人の意見を取り入れていくということもあると思います。
公団設立当初は特に、加納総裁や本城課長もそうでしたし、建築家の浜口ミホさんや前川國男さんなど、関わった皆さんは「日本の住宅を変えるんだ」という思いの中で住戸に強いメッセージを込めました。なので最後に、「今のURさんから次の時代へのメッセージはなんですか?」という、質問で終わりにしたいと思います。ありがとうございました。