MUJI×UR 団地リノベーションプロジェクト
バスで行く。東京団地ハイキングツアー

※このレポートは、2013年11月2日に都内で開催されました、「バスで行く。東京団地ハイキングツアー」の様子を採録しています。

国立富士見台団地と同様、2班に分かれて見学を進めます。

UR
高島平団地について説明しながら見学してきます。まず高島平団地の基本情報として、32棟、8287戸。家賃が54,000~100,000円くらい。間取りは1DK~3DK、広さは30~56㎡です。 敷地はとても広く、緑も豊富です。団地の南西側に赤塚公園という大きな公園もあり、BBQ、テニス、バスケなどもできます。商店街は団地内に6つあり、生活に必要なものは全て揃います。あと値段が手ごろ、特に生鮮食品はとても安いです。また、保育園は団地内6つ。5つが区営、1つが私営。現状は全て埋まっていますが、待機児童は余り多くなく、少しまでは入れる状況だそうです。またあまり知られていないのですが、都心までのアクセスもよく、約30分で出られます。また、団地の北に動物園の分園があるんです。ヤギなどがいて触れ合えます。子どもを育てるのには良い場所じゃないかなと思っています。



壱番街商店街コンコース改修
団地の顔と言っても過言ではない、駅前の号棟のコンコースを改修しています。全部コンクリートだったものを削り、ダウンライトをつけたりして、皆さんに気持ちよく通っていただけるように改修中です。今秋完了予定です。




屋上探検
普段入ることの出来ない、団地の屋上にご案内。団地を一望できるだけでなく、天気の良い日は富士山も。(あいにく、当日は曇っていたため富士山は見られませんでした)




リニューアル住戸
1972年(昭和47年)築の住戸とは思えないほど綺麗な、最新のリニューアル住戸を見学しました。




賑わう商店街(中央商店街)
昔ながらの八百屋が賑わう、団地らしい商店街。とても活気に溢れています、そして何より生鮮食品が驚きの値段!

見学後、大通りの紅葉し始めた並木道を眺めながら、次の目的地である東雲キャナルコートCODANへ向かいます。

トークセッション(第2回目)

この移動時間も、門脇氏と土谷氏による対談が行われました。

土谷
いま、門脇さんと話していましたが、国立富士見台団地が1965年(昭和40年)にでき、その後高島平団地は5年後に建てられたわけですね、5年もの時間があったにも関わらず、内部の設備はほとんど進化していません。高層化、高密度化ということが使命として優先されていたんですね。一方構造は壁構造からラーメン構造になる等、大きな変化が見えました。設備が変わるのは高島平の後でしょうか?
UR
構造が変化するのは、1980年(昭和55年)からです。いま見ていただいた仕様は、日本住宅公団時代のものです。1981年(昭和56年)に住宅・都市整備公団に変わるときに、今のマンションに繋がるような仕様に変わりました。例えばお風呂ですが、1980年(昭和55年)以降はユニットバスの卵のようなパンパネル工法というものが採用され、キッチンも今のシステムキッチンに変わり始めています。洗濯機パンはだいたい1975年(昭和50年)以降に実装されはじめました。
土谷
日本は数十年で構法や技術が一気に変わっていくんですね。その後もかわりつづけ、1980年(昭和55年)からたった30年でさらにものすごい変化を遂げています。たとえば洗濯機ができたのはいつ頃からでしょうか?当時はバルコニーに置いていたんでしょうか?
UR
そうですね、洗濯機はバルコニーか、浴室近くで浴室に排水していました。
土谷
なるほど、そうですよね。ところで構法については、中低層から高層を設計するにあたってどんな変化はあったんでしょうか。
門脇
構法の前に、まずは設備の変化について触れたいと思います。集合住宅には、設備技術の大きな変革が3つありました。1つめはユニットバス。2つ目はダクトを用いた換気設備。そして3つめが小型給湯器。これらの技術が、いずれも1980年代に集合住宅に導入されていきます。そして、これが集合住宅の間取りを大きく変えることになるのです。国立富士見台団地では、お風呂とトイレに窓がありました。お風呂もトイレも換気をしないといけないので、窓をつけようという発想です。しかし、その後お風呂は在来構法からユニットバスへと移行し、ダクトを用いて機械換気ができるようになり、さらにベランダに置ける小型給湯器の登場によって、お湯を沸かすときの空気汚染の問題もなくなりました。以上によって、お風呂やトイレには窓をもうける必要がなくなったのです。また、同じ時期に、集合住宅は高層化していきました。つまり、住宅を高密化しようとしたわけですね。ちなみに、住宅をなるべくたくさん詰め込むためには、住宅の間口を狭くすることが有効です。つまり、中層団地の頃に比べて、高層団地の住宅は、奥行き方向に細長くなるわけですが、そうすると、窓をつくれる外壁面も少なくなってしまいます。そこで、採光が必要な個室などはなるべく北側に置いて、同じく採光が必要なリビングは南側に置いて、窓が必要のない水廻りは、住宅の中央の部分に押し込めたような間取りに変わっていくのです。
また、高層化した住宅では、エレベーターを設置する必要がでてきますが、エレベーターは高額なため、1基のエレベーターを用いて、なるべくたくさんの住宅までアクセスできるようにしなくてはなりません。そうすると、中層団地のような階段室型ではなく、北側に共用廊下を持つ片廊下型が都合良くなってきます。しかし、北側には個室があって、窓もある。そこで、防犯のために、北側の個室の窓には「面格子」という鉄格子のようなものがはまっていきます。当然、プライバシーの問題もあるから窓もあまり開けられません。結果として、集合住宅はどんどん閉鎖的なものへと変わっていってしまいました。

高島平団地では、南向きと東西の向きの住棟があったと思いますが、東西向きの住棟も、なるべく住宅の密度を上げようとした結果、できたものです。南に向かって平行な住棟では、南北に採光を期待していますが、東西に平行な住棟では、片面採光の住戸が二列並べられているんですね。東側と西側の住宅で、それぞれ日照時間が同じくらいになるので、そうしているわけです。そして、片面採光の住戸を二列に並べるということは、二つの住棟を隣棟間隔を狭くして並べてるようなものですから、住宅の密度がぐっと上がるのです。

一方で、そういった団地の環境が良いかというと、必ずしもそうではありません。むしろ、この時代の団地は、密度と引き替えに、かつての中層団地の住宅がもっていたような豊かな住環境を、失ってしまったとも言えるかもしれません。
土谷
なるほど、そうした経緯で小型給湯器を廊下や共用廊下前に設置するようにもなるのですね。
また南向きに建てる事に対してに対して東西に開く住戸にはそうした理由があったのですね。
さらにV字型の団地にもそうした高密度のための大きな理由があったんですね。
門脇
V字型は、よくみると、2つの住棟が狭まって立っているという状態です。
土谷
ちなみに全体では容積率200%と、国立富士見台に比べ格段に上がっていたわけではありません。そのあたりは議論になりましたか?
UR
容積率についてですが、国立富士見台は72%くらいなのに対し、高島平は229%です。高島平団地は、完成当初は高密度といわれていたんですが、最近の超高層マンションは400~500%、それ以上のものもあり、これは新しい技術革新があったので出来ていることなのです。これから見に行く東雲は14階建てで容積率400%ですが、超高層住棟を使わずにどこまで容積をいれられるか、という実験的な試みでした。
門脇
基本的に高さを出すだけでは容積率は劇的には上がりません。たとえば超高層マンションの場合、眺望の良さと引き替えに、南向きではない住宅もたくさん出てきていますが、この「南向きではない住宅を許容する」というのが大きなポイントです。
土谷
東雲は容積率の高さを、高層ではなく、中低層で実現しています。どんな設計なのか楽しみですね。あと、エアコンについての歴史はどうだったのでしょうか。国立富士見台のように風が抜ける当初の間取りではエアコンは必要なかったのでしょうか。
門脇
住宅の密度が上がれば、当然住宅が環境に触れる割合は減ります。団地がそういった環境になるにつれエアコンは発達していき、またマンションの部屋が内に閉じたものになっていったのです。国立富士見台団地は、その名の通り富士山が見えることを売りにした、環境に対して開いた住宅でしたが、1980年代になると、そうした集合住宅は成立しなくなっていくのです。さらに超高層マンションになると、風が強くて窓を開けられないといった閉じこもり方も出てきます。住宅の密度は環境と深い関係がありますね。
土谷
そういえば、テラスハウスのような、中低層で戸建を連続させたような住宅を作り始めるのはこの時代(高島平建設当時)でしたでしょうか?
UR
テラスハウスはもっと前から作っています。2階建てで、隣の家と横でつながっているものは1955年頃(昭和30年代)から。先ほど説明があった55年以降は中層を作ることに住宅公団的なこだわりがあるんです。中層住宅は接地性が良く、設計側としては良いけれど、経済合理的にはもっと高層化が進んでいくという時代の流れがありました。現在は、テラスハウスは作っていません。
土谷
そんなに早く取り組んでいたんですね。ところで民間ディベロッパーが高層マンションを急速に建て始めるのは1980年代でした。そこではハイグレードな建物の登場で、公団が目指したような“多くの一般の暮らしを豊かに”というコンセプトから一転、高額物件で高級な仕様が登場しますね。消費の欲望をあおる住宅がでてくるのですが、URはそのことで役割に変化がうまれたのでしょうか。そのあたりについてお話いただけますか。
UR
民間マンションが極めてハイグレードになったのは、バブル時代からだと思います。公団も当時は分譲住宅も手がけていましたが、その後、民間との競合を避けるべきということで、分譲住宅の供給はやめています。
土谷
公団としての役割と問われた時代でしたね。その後のURはどのような変遷を?
UR
1981年(昭和56年)に日本住宅公団から住宅・都市整備公団になったのがターニングポイントでした。当時、住宅不足は解消され、公団住宅が“高・遠・狭”といわれる一方で、都市問題を解消するのは地方公共団体だけだと難しいので、公団を都市整備に活用しようという流れでした。その中で、新たに住宅を作るという役割は今はなくなってきています。
門脇
公共住宅には、不足していた住宅を公的な主体がつくっていくという役割に加えて、民間の住宅の質を高い方に誘導するという役割がありました。しかし現在、住宅は余りだしているほどですし、民間のマンションの質も十分に上がっています。ということは、公共住宅は、かつて持っていた役割をすべて失ってしまったということになる。URが基本的に新築をやらなくなったことの背景も、実はそういうところにあるのです。

したがって、公共住宅には現在、かつてとは違った役割が必要です。僕はこの新しい役割とは、「今の社会にふさわしい新しい住まい方を応援すること」だと思っています。
東雲も、「都心で働きながら住む」という新しい住まい方を、建物として具体化したものです。MUJI×URも、リノベーションを通じて、新しいライフスタイルを提案しようとしています。こうした試みを進めていくことこそが、現在のURの社会的使命だろうと理解しています。
土谷
MUJIでは「住まい方」をテーマにいくつものプロジェクトを取り組んでいますが、現在の住まい方は本当に多様化していると感じますね。しかし多様化していると言っても、単に多様なプランを作ることは限界があります。個別解をつくるのでなく、いかに一般解を作り出すかということも大量供給では必要です。そうすると一般解としてのプロトタイプをつくりながら多様な住まい方にそのプロトタイプが対応できるか考えるということもあるでしょう。

先ほどスケルトン・インフィルの話もありましたが、それは耐久年数を延ばすだけではなく、さまざまな暮らしにいかに対応させるかということでもあるでしょう。そのあたり「暮らし方」と「構法」、特に構法についてはどう変わっていくとお考えでしょうか。
門脇
土谷さんのおっしゃる通り、プロトタイプは必要です。公共的なものが、個人の趣味嗜好を応援することはできません。URが提案するような「新しい住まい方」には、それが広がっていきうるような普遍性も必要なのです。むろん、住まいの問題ですから、抽象的な議論にとどまらず、新しい住まい方は具体の住宅のかたちとして提示する必要があります。これこそが現代的な「プロトタイプ」になるのでしょう。今、日本の社会は縮小しつつありますが、そういう時には助け合いが必要になります。その具体的な現れが、それがシェアハウスやコレクティブハウスの形になっているのだと思いますが、これらにまだプロトタイプはありません。また、縮小する社会ですから、今あるストックを有効に使うこと、つまりリノベーションのプロトタイプも必要です。

一方で、SI的なものは、個人の趣味趣向に対して、住宅を自由にカスタマイズできるようにする、という話かなと思っています。だとすると、プロトタイプはあくまで「住まいの骨格」をつくるだけのものなんですね。人々の新しく、多様な住まい方を、支えられるような豊かな住まいの骨格。それをどのように実現していけるかが、これからの課題だと思っています。