MUJI×UR 団地リノベーションプロジェクト
3/10 MUJI×UR トークセッション 「災害時における地域コミュニティの役割」

※このレポートは、2024年3月10日(日)に無印良品 グランフロント大阪で行われたトークイベントの模様を採録しています。

part2:UR 災害時の取組の振り返り
松枝
最初に熊澤さん、よろしくお願いいたします。
熊澤
URの熊澤です。UR の関西エリアとしての災害時対応ということで、直近で起きた大きな地震では大阪北部地震がありました。この大阪北部地震での取り組みと、そこから感じたことをお話しさせていただきたいと思います。

地震の概要ですが、発生したのが約6年前の2018年6月18日、朝の7時58分頃で、震源地は大阪北部の高槻市となります。
震源の深さは約13キロ、地震の規模はマグニチュード6.1でした。
その時の震度ですが、震度6弱が、大阪市の北区、茨木市、高槻市、 箕面市、枚方市。震度5強が、大阪では、高槻市、箕面市、豊中市、吹田市などがありました。また、京都府では亀岡市、長岡京市、八幡市なども震度5強を観測しました。

ちなみに、地震の規模としては、大阪北部地震はマグニチュード6.1でしたが、これがどれぐらいなのかは、なかなかイメージが湧かないかなと思います。参考までに申し上げますと、1995年の阪神・淡路大震災がマグニチュード7.3で最大震度は7。2011年の東日本大震災がマグニチュード9.0で最大震度7。マグニチュードがエネルギーの強さを表すのですが、マグニチュードが1違うと地震のエネルギーは32倍違うというような指標になっています。

震度で言いますと、まず大阪北部地震の時に高槻市や箕面市で観測した震度5強は、物につかまらないと歩くことが難しいほどの揺れとなります。大阪市の北区、茨木市、震源の高槻市などは震度6弱だったのですが、これは立っていることが困難であったり、固定していない家具の大半が移動したり倒れるものもあり、耐震性の低い木造建物は傾いたり、倒れるものもあるような状態となります。

阪神・淡路大震災や東日本大震災はこれを超える震度6強や震度7でしたが、震度6強の場合ですと、這わないと動くことができない、固定していない家具は倒れることが多くなるほか、耐震性の低い木造建物は傾くものや倒れるものが多くなります。震度7になると耐震性の高い木造建物でも稀に傾いたり、耐震性の低い鉄筋コンクリート造の建物でも倒れるものが多くなるというような状態となります。

大阪北部地震の場合は震度6弱でしたので、立っていることが難しい程で、固定していなかった家具が動くなどの被害が出る強さでした。
大阪北部地震の場合は津波の心配はなかったのですが、当日は高速道路で通行止めが多数発生しました。鉄道も広く運転を見合わせましたが、高速道路、鉄道ともに数日で復旧しています。
地震発生直後は広範囲で停電などが発生しましたが、ライフラインも数日で全面復旧をしています。

UR賃貸住宅では一部の団地で断水が発生したのですが、数日で復旧しております。

高槻市内ですと地震で道路が破損している場所がいくつかありました。
熊澤
地震は7時58分で、ちょうど朝のラッシュ時でした。地震が起きた時に電車がいたるところで止まったため、駅ではない線路の途中でも止まってしまいました。その先の線路の状況が分からないということもあり、電車から降ろされて、次の駅まで歩いたという方も多くいらっしゃいました。

私の当時の役職や担当業務ですが、西日本支社の住宅経営部という部署の業務課長という職責にありました。仕事の内容を簡単にお伝えしますと、関西圏を中心に約400団地、20万戸のUR賃貸住宅の居住者対応や事件、事故対応などの一般管理を所掌しており、管理方針などの企画・推進や個別事案の法的措置の対応を主に行っていました。
私1人で行っているわけではなく、私のいた部署・さらにそこに関連する別の組織もあります。
熊澤
関西圏では、 千里、大阪、泉北、兵庫、阪神、京都、奈良の計7つの住まいセンターがあり、各現地の居住者対応を含む団地の一般管理業務は各住まいセンターが基本的に担っています。
大きな事案については、支社住宅経営部の業務課が指揮して、住まいセンターと共に対応をしています。今回お話をしている大阪北部地震は、被害が大きく広範囲に渡るものであったため、業務課で指揮をすることになりました。

当日の状況ですが、地震発生時、私は自宅で出勤に向け身支度をしていました。
ちょうど床に座っていまして、下から突き上げるようなドンとした揺れが来た後、横にゆさゆさと揺れました。震度5強ぐらいだったと思うのですが、当日の地震発生時、身をもって感じました。
阪神・淡路大震災も神戸で経験をしているのですが、その時ほどではないということはすぐに分かったものの、大きな地震でしたので、これはまずいと思い、急いで家を出ました。
最寄り駅の地下鉄の駅まで来ると、駅の入口のシャッターが既に封鎖されていて、駅に入れない状態になっており、急いで家に戻って、自転車で会社へ向かいました。
当時はURの西日本支社は森ノ宮にあり、森ノ宮まで中央大通りを通って自転車で向かいました。 地下鉄もこの時は当然止まってしまい、大阪市内の中心部では地下鉄から降ろされ、徒歩で歩く人で溢れ返っていたため、自転車が運転しにくく、勤務地の森ノ宮まで1時間ほどかかりました。
ようやく会社に着いても、100人ほどの部署にもかかわらず、出社していた者は数人だけでした。交通機関が止まり、多くの職員が通勤途中で足止めされ、自宅へ戻る者、近くの住まいセンターへ出勤した者、歩いて森ノ宮の事務所まで来た者など、足止めされた場所に応じて様々な出勤状況となっていました。

その時やらないといけない対応としては、まず1番が事務所、各住まいセンターの職員の安否状況の確認と出社状況の把握です。
2番目は、各団地の被害状況の把握と2次被害の発生防止でした。

まず、職員の安否確認では、残念ながら出勤途中の駅のホームで自動販売機が倒れてきて背骨を骨折するというような被害を受け、負傷した者も1人おりました。職員及び家族の人身被害は他にはなかったと記憶しています。
出社状況ですが、事務所では時間が経つにつれてポツポツと出勤してくる者がいましたが、それでも当日は3割程度の者の出勤にとどまっていたと思います。

当日の朝は、出社後すぐ被害状況の確認のため、各住まいセンターに電話をしたのですが、管理職や各課の番頭クラスの者の多くが出社できていませんでした。

現場の情報収集をしないといけなかったのですが、日頃から情報収集の取りまとめや指示に慣れていない者に頼まざるを得ない状況の住まいセンターが多く、 被害状況の把握すらどこまでできるのか、初めは不安な思いでした。
こういった地震などの災害が起きた時、URは団地にお住まいの皆さんや住宅を守らねばなりませんが、その我々自身も被災者となり、多かれ少なかれ影響を受けてしまうため、被災直後は残念ながら迅速かつ的確な対応は難しいという現実を思い知らされました。

被害状況の把握などですが、当日の午前中は最前線の住まいセンターの職員も出社できていない者が多く、出勤してきた数人に情報収集・報告を依頼し、各団地の空家補修業者や団地の清掃業者などの協力を得て、被害状況の把握と破損箇所への立ち入り禁止措置など、2次被害の防止対策を講じました。

団地での被害については、大きな負傷などの人身事故はなく、多くは外壁のクラックの発生などによる表面上での破損でした。
被害の概要としては、エレベーターの閉じ込めが10件、エレベーターの長時間停止が1,046基、うち機器が損傷したものが14基ありました。
熊澤
断水は4団地5,111戸に及び、水道局側での断水が3団地5,109戸でした。
この時、高槻市と茨木市の市境にある総持寺団地という団地では水道が止まってしまいましたので、給水パックによって、水をお住まいのみなさんに配布しました。
また、漏水が9件、その他の建物のクラックなどが65件ありました。

10件発生したエレベーターの閉じ込めでは、エレベーターのサービス会社が到着するまで、閉じ込められた方はそこから動きようがなく、1時間だけでも大変な思いをします。
あの時は高槻、茨木周辺を中心に、いろいろな建物でエレベーターの閉じ込めがあり、エレベーター会社もてんてこ舞いだったのですが、URの場合は地震後すみやかに救出が行われ、その朝11時半頃までには全員が救出されました。

当時の被害の状況の写真です。
熊澤
まず箕面市にある箕面粟生第1団地ですが、共用廊下の壁面のひび割れです。これは5階建ての住棟の共用廊下の2階です。躯体に問題はなかったのですが、躯体の上に乗った共用廊下壁面のモルタルにヒビが入りました。X形にヒビが入ったということで結構揺れたことがこれを見ていただいてもお分かりいただけるかと思います。

次の写真がこちらです。
熊澤
1番左が茨木三島丘イーストという団地のガラスの破損の写真です。ちょうどこの時に、外壁修繕をしており、その足場が地震で揺れて、ガラスに当たってヒビが入ったものになります。

真ん中の写真は、今津浜パークタウンという西ノ宮の海側の団地で、横方向にモルタルのひび割れが入りました。

1番右側の写真は、建設から約20年とURの中では比較的新しい香里ヶ丘けやき東街という団地ですが、こちらもモルタルの一部が地震の揺れによってかけて剥がれて落ちた写真です。

これらの写真は建物の被害のごく一部ですが、構造上の問題があるような被害というのはほぼなかったものの、躯体の上に塗ったモルタルにひび割れが入ったり、剥がれたりというのは多数ありました。こうした破損の中で、お住まいの方の生活に危険があるようなものには近寄れないようバリケードで囲うなど、2次被害につながらないように、安全確保の対策を速やかに講じて、順次補修を行っていきました。
熊澤
こちらの写真は、吹田市の阪急北千里の駅前の北側にある、千里青山台団地の写真です。
この団地は、約1850戸、70棟の大きな団地で、エレベーターの無い5階建て中層の建物がほとんどなのですが、このうち1棟だけ、北千里駅の北側に11階建て、190戸の建物があります。この高層住棟のエレベーターの通り道となるシャフトにひびが入りました。

こちらが大阪北部地震でURの団地の中で最大の被害となり、構造上の問題が生じた被害でした。
倒壊するというわけではなかったのですが、エレベーターが止まってしまい、復旧に1年半以上かかりました。

写真はありませんが、その他には、先ほど少し話をした、茨木市と高槻市に跨がっている1800戸の大規模な総持寺団地では高槻市側が断水し、茨木市側の水道は利用できているというような状況でした。
URのグループ会社で、団地管理の一部を担っている日本総合住生活「JS」という会社が 約2000個の10リットルの給水パックを用意し、茨木市の共用水線を使って給水し、高槻市側の住宅に配布したというエピソードもありました。
熊澤
また、この震災でURは8団地2,573戸を対象に、契約名義人が65歳以上の高齢者世帯へ各戸訪問を行いました。
被害を大きく受けた団地のエリアが比較的絞られたため、URの職員が1件ずつ尋ねて安否確認を実施することができました。
ご自宅で被災されて救助が必要だった事例やタンスなどの下敷きになり亡くなった方はなく、最終的に全対象住戸の全員の無事が確認できたことは不幸中の幸いでした。
この時対応した職員の記録が残っているのですが、多くの方から感謝、慰労の言葉をいただくとともに、皆さんが怖い思いをして地震があった当時の様子を、堰を切ったように話をされた方が多かったそうです。
また、ガスメーターが停止してしまって、その復旧方法がわからないということを言われるケースも結構あったそうです。

こちらはその時の様子を記事にした社内報です。
熊澤
不在時には黄色い紙を玄関のドアポストに投函し、安否確認が取れなかった住宅へは目印として再度1週間後に再訪問しました。
現場の最前線で管理業務を行っている住まいセンターは、URコミュニティという関連会社が運営をしており、UR職員は住まいセンターで勤務することが少なくなりましたので、当時対応したUR職員は、災害時のお客様の声を直接聞くことができ、貴重な経験をすることができました。

住民の方による対応事例も少し紹介をさせていただきたいと思います。
高槻市にある2600戸の大型団地の富田団地で安否確認をした際、約30年にわたって自治会長をされている方に当時のことを伺ったところ、「当日朝は朝食中、味噌汁のお椀がひっくり返ったのを覚えています。すぐに外を出て、拡声器を使って団地内を巡回し、近所同士の声かけ、安全確認を呼びかけた」そうです。
日頃から付き合いのある近所のこどもが様子を見に来てくれたのが嬉しかったという高齢者や、この時の声掛けがきっかけとなり、普段も会話するようになったというご近所同士の例があったそうです。
また、近くの小学校から連絡があり、プールの水がトイレの排水に使えるかもと言われて、使うつもりで考えていた矢先に水道が復旧してほっとしたなど、震災の際は、普段から一緒に活動している地元関係者間で頻繁に連絡を取り合い、情報収集をしたという話もありました。
他には、阪神・淡路大震災の経験から家具の転倒防止をしていた方が多かったという印象があり、そのためもあってか怪我人が少なかったということをお話しされていました。

地震という災害は突然やってきて、部屋の中で被災することも十分にあります。外から被害が見えないことから、負傷していれば発見が遅れたり、それが命に関わることもあり得ます。
大阪北部地震での各戸訪問の際も、タンスの下敷きになりそうになったとか、たまたま遊びに来ていた身内に助けられたというお話もありました。
余震が続いたり、大きな被害の場合など、その影響が長期間にわたる場合もあります。
そういった時に、普段から近所同士の繋がりをもつことは非常に重要になってくると思います。災害時はそうした繋がりがあれば、 被災後の救助、その後の助け合いや孤立の防止にも役立ちます。

大阪北部地震の時も、ガスが復旧しているにもかかわらず、UR職員が尋ねるまで復旧方法がわからず、それまでガスを使わずに我慢して生活されている方もいらっしゃいました。ガスメーターの復旧も、ご近所付き合いの中で尋ねることができたら、もう少し早く解決したものと思われます。

隣近所とのお付き合いは、都市部では昔に比べて特に少なくなっています。一世帯の家族も平均で2人を切り、若い夫婦は多くが共働きで、団地の自治会も担い手が減って存続が危うくなっているところも増えてきています。また、少子化の影響でこども会もなくなり、一層周りとの付き合いがなくなってきているのが今の実情です。

さらに、特殊詐欺のような事件も後を絶たず、周辺の人を素直に信用しにくくなってきているところも拍車をかけ、周りの人とのつながりが希薄化しているのは、個人個人のプライバシーを守るというところではメリットがある反面、現代の生活のしづらさに繋がっていると思います。
熊澤
団地では上下左右にどんな家族・人が住んでいるのかもわからないといったことも最近ではよくあります。
昔のような付き合い方を隣近所とすることは難しい世の中になってきましたが、全く付き合いがなければ、災害時などのいざという時にも関わりにくくなり、知っている関係なら気軽に声をかけ、簡単に助けることができるのに、それができない、しないといったことになり、結局は被害や困り事が増えることに繋がっていきます。
そうならないためには、こういった時代でも適度な近所付き合いというのは必要なのかなと思います。
近所同士の付き合いと言っても、まずはすれ違ったら挨拶する程度でいいと思います。
顔見知り、ちょっとした付き合いを日頃から意識して作っていくことが、いざという時の備えの最初の1歩として重要だと感じました。
松枝
熊澤さん、ありがとうございます。
地震発生そのものを僕らが防ぐというのは難しいですが、発生以降の被害をいかに最小限に食い止めるかということで、地域の繋がりが1つの手段なのかなと思って伺っていました。熊澤さんやURさんで、この繋がりというところをきっかけとして取り組んでいるものをご紹介いただけますでしょうか。
熊澤
はい。URではウェルビーングという活動になりますが、コミュニティ活性化の一環として、団地において全国で年間約1500件強のイベントやワークショップなどを積極的に行っています。

例えば、昨年夏休み期間中のこども向けの講座で、集会所を無料開放した「DANCHIつながるーむ」というイベントを実施しました。団地に住むお子さんに楽しんでもらって、そこで繋がりを持ってもらうというイベントだったのですが、夏休み期間中というのは、40日間ずっと家にいるということになります。親御さん方も、結構苦労されているのではないかというところで、お子さんに集会所に来てもらい、UR職員がお子さんと一緒に過ごすことで、親御さん方もちょっとは楽をしていただけるのかなというようなところも考えました。
熊澤
このイベントでは、無印良品の「いつものもしも」チームにも協力いただいた防災講座や、団地の樹木を使ったリアルな植物図鑑講座など、全部で47の講座を開いて、お子さんだけでなく親御さんからも大変ご好評をいただきました。今年も去年以上のものを実施したいということで、今URの中で 頑張って考えているところです。

そのほか、URは東北でも震災復興の対応ということで色々な仕事をさせていただいています。東日本大震災から10年以上経ちますが、福島県の大熊町にあるKUMA・PREというコミュニティ拠点です。
熊澤
JRの大野駅周辺は、原発の避難指示が2020年3月に解除されたところなのですが、長い間の避難生活で住民さんもバラバラになってしまい、 ハード整備だけでは解決できない問題もありました。ここではそのコミュニティ醸成の一環として、コミュニティの再構築を考え、2022年2月にオープンさせた施設になります。

こうしたことも含めて、URは町の活性化に向けた活動というのを自治会や地域の方々と連携していろいろなところで行っています。
松枝
ありがとうございます。
イベントの中に防災に関するものや備えのものをエッセンスとして入れることで、それに参加することをきっかけとして人と人が繋がっていく。そういったコーディネート役をやられているのかなという感じがします。
熊澤
そうですね。
やっぱりハードだけの整備ではなく、ソフト面の整備も、最近は両輪でやっていかないと、なかなかその地域・地元の活性化というところに繋がりません。昔だったら住民の皆さんが自然と集まっていたということがよくあったのですが、今はなかなか横で繋がりにくいというような状況があります。 そういったところを促進するため、URはソフト面の取り組みも力を入れています。
松枝
ありがとうございます。
先ほど熊澤さんのお話の中でも、無印良品の「いつものもしも」の話も出ましたので、次のパートに移りたいと思います。